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浦和の歴史

2014年2月28日

浦和の歴史

政令指定都市「さいたま市」


さいたま市は平成13年に浦和市、大宮市、与野市の合併により誕生しました。その後平成15年に政令指定都市となり、さらに平成17年に岩槻市との合併を経て今のカタチになりました。


旧浦和市の地勢


 旧浦和市はさいたま市の南部に位置し面積は70.67k㎡で、東西は綾瀬川から荒川までの15.8km、南北は9.9kmあります。

市の中央部および東部は大宮台地の先端部となり標高10~20m、西部は荒川流域の低地が広がり、中央部と東部の中間あたりは芝川流域の低地、東端は綾瀬川流域の低地でいずれも標高4~6mとなっています。

特に芝川流域はかつての見沼田んぼと言われるエリアでとても低い地形となっています。

大枠で見れば旧街道や国道、鉄道が南北に通っている周辺は高台でその間に低地が広がっていると言えます。

旧浦和市の歴史

 江戸時代、五街道の一つ、中山道の宿場町として栄えました。
現在の常磐に本陣が置かれ、毎月二と七の付く日に「二・七の市」が開かれました。
また徳川将軍が日光に参拝するために日光御成街道(現在の国道122号線)
にも大門宿が置かれました。

 明治時代には武蔵県、大宮県を経て、明治2年に浦和県となり県庁が鹿島台に置かれました。

さらに廃藩置県後に岩槻県、忍県、小菅県などを合併し埼玉県となりました。

 明治6年、教員養成機関として学制改正局(現在の埼玉大学)が浦和宿本陣内に置かれ、翌年、埼玉県師範学校と改名されました。また明治9年に医学校が開設、その後、県立浦和第一尋常中学校、県立浦和高等女学校、官立浦和高等学校などが開校し、全国から優れた学生が集まるようになり「文教都市浦和」の礎が築かれました。
 昭和7年、省線電車(現在の京浜東北線)が整備され都市化が急激に進みました。

同じ頃、木崎村、谷田村を合併し、昭和9年には人口4万3千人となります。

 昭和15年、三室村、尾間木村、昭和17年に六辻町を合併、昭和30年に土合村、大久保村、戸田町の一部、美園村の一部を合併、同時期に9号国道(現国道17号線)の開通など道路交通網の整備が進み、埼玉県の中心都市となってゆきました。

 戦後は、日本の高度経済成長と共に市内に大規模な団地などの建設が進み、東京のベッドタウンとしての性格を強めてもいきました。昭和40年代に入り、新大宮バイパス、武蔵野線の開通、旧中山道を中心としたオフィス街、北浦和駅周辺、南浦和駅周辺の開発が進み、商業活動が活発化してゆきました。

 浦和に県庁が置かれて一世紀になる昭和56年4月、浦和駅西口の整備が完了しました。

昭和60年には西部エリアに埼京線が開通、武蔵浦和駅、中浦和駅が開設、さらに東部エリアに平成13年、地下鉄南北線から延伸した埼玉高速鉄道線が開通、浦和美園駅ができました。さらに近年になり浦和駅の高架化と東口とその周辺の整備が完了しました。

 また浦和は古くからサッカーの盛んな町として全国に知られています。

埼玉サッカー発祥の地である埼玉県師範学校がありますが、昭和20年?50年代にかけては、浦和高校、浦和西高校、市立浦和高校、市立浦和南高校が次々と全国大会優勝を遂げたことは有名です。

近年ではJリーグの発足に際して、浦和レッドダイヤモンズのホームタウンとなり、益々サッカーの町として全国に知られるようになりました。


 参考文献:さいたま観光国際協会
 著:佐々木善樹